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日本历史日文版第三部.doc

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    • 新説・日本の歴史 第3弾 古事記と日本書紀の真相新说・日本的历史第3弹 《古事记》和《日本书纪》的真相古代史のバイブルとも言える古事記と日本書紀は、どのようにしてできたのか今回は、古事記と日本書紀の真相を推理してみようと思うただし、この内容は、当方の研究成果とも言うべきものであり、通常の古代史の学説とは違うものである 被称为古代史的经典《古事记》和《日本书纪》,是如何被创作的呢?本次,推测一番《古事记》和《日本书纪》的真相但是,以下内容,只是我方的研究结论,与一般的古代史学说不同はじめに、古事記や日本書紀は、天武王朝期に作られているので、この王朝の天皇を紹介する以下の9代8人である首先,《古事记》和《日本书纪》是天武王朝时期被编写的,所以介绍一下这个王朝的天皇以下是9代8人天武王朝の天皇達天武王朝的天皇们現存する正史の最古のものは、古事記(712年完成)であるそれから8年後、全体が漢文で書かれた日本書紀(720年)が完成している古事記は、上巻、中巻、下巻から構成され、神代から推古天皇までが書かれているが、日本書紀は、推古天皇から100年ほど下がった、持統天皇(41代の女性の天皇)までが書かれている。

      现存最古老的正史,就是《古事记》(公元712年完成)8年后,全书用汉文编写的《日本书纪》(公元720年)著书完成《古事记》由上卷,中卷,下卷构成,记载神代开始到推古天皇时期《日本书纪》记载的是从推古天皇100年后,直到持统天皇(第41代女性天皇)时期 日本書紀を作った最大の目的は、本篇"第1弾で、紹介したとおり、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立である编写《日本书纪》的最大目的,如本作第1弹介绍的同样,是对中国和朝鲜表明日本独立,确立国家体制(天皇制)  古事記も漢文で書かれた書物であるが、上巻、中巻、下巻で構成されている活字の大きさが、5ミリ四方程度の大きさで厚さが1.5センチ程度の本に収まる程度のボリュームであるこれに対して、日本書紀は、全31巻からなり、原本に翻訳がつくと厚さ5センチ程度の本で3冊ぐらいになる《古事记》是用汉文著书,分为上卷,中卷,下卷大活字印刷,五毫四方大小,厚1.5厘米与此相对,《日本书纪》共31卷,原本附翻译,厚5厘米,共3册 古事記は、天皇や関係者に見せるための本で、日本書紀は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)であるこうして見ると古事記は日本書紀を作るための雛型本であったと思われる。

      《古事记》是给天皇和相关者阅读的书,《日本书纪》是给外国阅读的,特别是为了让中国意识到日本的存在,而创作的国史(正史)这样看来,可以认为《古事记》是为了以后创作《日本书纪》,而出现的雏形书本  古事記については、不可解な伝承がある平安時代には、古事記は宮中深く保管されて、見てはならない本とされていたのであるだれが、何の目的で、閲覧禁止にしたかは判っていないだが、おおよその見当はつく关于《古事记》,有难以让人理解的传说在平安时代,《古事记》是放在深宫中保管是谁,又是因为什么禁止此书的阅读,至今不为人所知但是,心里大概有个谱 先ほど、日本書紀は全31巻と言ったが、現存する日本書紀は全30巻である最後の31巻がないのである最後の31巻には、歴代天皇(神武から持統天皇まで)の系図が載っていたと言われている刚才说到,《日本书纪》共31卷,但现存的是共30卷最后的第31卷失踪了相传最后的第31卷,是记录历代天皇(从神武天皇到持统天皇)的族谱 ところが、あの悪名高き桓武天皇が、命令を出し、31巻を焚書させたのである理由は、「過去においては、臣が天皇になっているので正しくないしたがって、日本書紀の31巻を焼き捨てよ。

      」ということであったしかも、日本書紀の何箇所かを変更・削除したと言うのである変更・削除の個所は、主に日本と朝鮮の外交関係部分と言われている然后,恶名昭彰的桓武天皇,下令烧毁第31卷理由是:「在过去,臣下可以成为天皇是错误的因此,烧毁《日本书纪》第31卷」而且,《日本书纪》里有好几个地方被更改,删除据说,更改,删除的地方,主要是日本和朝鲜的外交关系部分 桓武天皇は、朝鮮嫌いで、親唐的な政治をしたことで知られているもっとも桓武天皇の母は、身分の低い中国人であったらしい父は、光仁天皇で、60歳過ぎてから11年間、アルコール中毒のまま、天皇を務めた人である光仁天皇は、天智天皇の5世の孫で、道鏡とともに政治改革をしようとした女帝・称徳天皇の後を継いで天皇になった人である人所共知,桓武天皇厌恶朝鲜,实施的是亲唐政治尤其是,桓武天皇的母亲好像是身份低贱的中国人其父亲,光仁天皇,60岁之后继位天皇的11年间,沉迷于酒精光仁天皇,是天智天皇的第5代孙,是与和尚道镜进行政治改革的女帝——称德天皇的后继天皇 本来は、光仁天皇は、天皇になれるような人ではなかったしかし、天武王朝の称徳天皇(聖武天皇の娘)が、自分の母親は藤原氏でありながら、当時実権持ちつつあった藤原氏を排除しよう果断な政治改革をした。

      ところが、藤原氏の反発に会い、道鏡の裏切りもあって、今の名古屋付近の藤原百川の家で毒を飲まされ、1ヵ月後に平城京で死んだ本来,光仁天皇并不是成为天皇的人选但是,天武王朝的称德天皇(圣武天皇之女),其母亲是藤原氏,为了排除当时大权在握的藤原一族,果断进行政治改革然而,面对藤原一族的反扑,以及道镜的背叛,称德天皇在现今名古屋附近的藤原百川的家里,饮下毒药,于1个月后在平城京死亡 この後, 藤原百川は、天智系から天皇を出すことを考え、当時60歳過ぎの光仁天皇を選んだのであるその光仁天皇が名も無き中国系帰化人の女に生ませた子が、後の桓武天皇である 之后,藤原百川出于对天智系血统的考虑,虽然光仁天皇当时已60多岁,仍然选他为天皇光仁天皇与连名字都没有的中国系归化人的女儿所生下的儿子,就是后来的桓武天皇 桓武天皇が疑い深い性格であったことは、井之上内親王やその子の他戸親王(おさべ)を毒殺し、同母の弟、早良親王(さわら)を自殺させたことを見ても判る本来は、桓武天皇は、光仁天皇の後を継ぐような身分ではなかったのである藤原百川と結託して、後継者とおぼしき皇子を次々と殺して、自分が天皇になったのであるこの点、唐の李世民に似ている。

      桓武天皇毒杀了井之上内亲王和他的儿子他户亲王,并且让他同母的弟弟,早良亲王自尽,从此就可看出桓武天皇生性多疑本来,桓武天皇并非是光仁天皇的后继人身份但他与藤原百川勾结,把拥有后继者身份的皇子逐一杀害,最终让自己继位天皇这一点,和唐朝李世民很相像 話をもとに戻すと、このように見てくると古事記を閲覧禁止にしたのは、桓武天皇であると考えられる彼が、日本書紀を変更し、古事記を閲覧禁止にしたのは、天皇と臣民との関係が正しくないという理由ばかりでなく、親唐政策を勧めようとする桓武天皇にとって、日本と朝鮮が関係深かったことは、不愉快であったそれが、このような行動を起こさせたものと思われる要するに一種の「やきもち」である言归正传,这样看来,《古事记》被禁止阅览,可以认为是桓武天皇所为《日本书纪》被修改,《古事记》被禁止阅览,他这样做,并非是以天皇和臣民的错误关系问题为出发点,而是极力实施亲唐政策的他,在两书中日本和朝鲜关系深远的记载,令他不快可以认为,这才是他这么做的真正原因可以称之为一种「妒忌心理」 日本書紀をよく分析すると不自然な部分がいくつかあるまず、歴代の天皇の年齢は、一人を除いてすべて直接・間接に書かれている。

      書かれていない一人とは、天武天皇である神代の天皇の歳が、まことしやかに書かれていて、直前のしかも日本書紀作成の言い出しっぺの年齢が書かれていないというのは、不自然であるそこには恣意的なものを感じる仔细分析《日本书纪》的话,会发现有好几处不自然的地方首先,历代天皇的年龄,全书中除了一个人的没有写,其他的都直接和间接地在书中提到了没有记载年龄的是天武天皇神代的天皇的年龄,都煞有介事地写上去了,反而提议编写《日本书纪》的天武天皇自身的年龄,却没有记载,很不自然给人一种故意的感觉 要するに、本当のことを言ったら、全体のストリーが壊れるので、天武天皇の年齢が書けなかったのであるその最大の壁は、天智天皇と縁もゆかりもない天武天皇を天智の弟と設定したところにある总之,真相有可能是,所有的故事都被篡改了,所以天武天皇的年龄没有记载上去最大的问题是,与天智天皇毫无任何关系的天武天皇在书中被设定为天智天皇的弟弟 次に、不自然なのは、墓である神武天皇から持統天皇まで、41代の天皇のうち、墓のことが記述されていない天皇が2人いる一人は、天智天皇で、もう一人は持統天皇である持統天皇は日本書紀が書かれていたころは生きていたのであるから、墓がないのは当然であるが、天智天皇は持統天皇の父であり、いくら壬申の乱があったとは言え、墓がわからないはずはないのである。

      另一个不自然的地方是陵墓从神武天皇到持统天皇,41代天皇里面就有2位天皇的陵墓没有记载一个是天智天皇,另一个是持统天皇《日本书纪》被编写时,持统天皇还在世,所以持统天皇的陵墓没有记载,情有可原但是,天智天皇是持统天皇的父亲,无论壬申之乱如何,不可能不清楚自己父亲的陵墓在哪儿 しかし、伝承としての天智天皇の墓は、山科に現存する(京都の地図に載っている)この墓は、三井寺の(古くは三意寺と書く)伝承にもとづいたものである伝承によれば、「天智天皇は、ある日、馬で狩に出かけたが、いつまで経っても帰らないので、探したところ、山科の山中に天皇の靴が落ちていたそこで、そこを天智天皇の墓としたと言うものである然而,传说天智天皇的陵墓,还存在于山科(京都的地图)根据三井寺(古代被写作三意寺)的传说传说内容是:「某日,天智天皇骑马外出狩猎,经过很长时间未归,后来,在山科的山里发现了天皇的鞋子并且在那里建造天智天皇的陵墓」 これが事実だとすれば、天智天皇は、誘拐され、殺されたことになるしかも、遺骸は出なかったのであるしたがって、山科にある今の天智天皇の墓は、真の天智天皇の墓とは、言えないのであるだからこそ、日本書紀には、天智天皇の墓に関する記述がないのである。

      如果这是事实的话,那么天智天皇是被绑架并杀害的而且,尸体都没找到因此,在山科的天智天皇的陵墓,并非真正的天智天皇的陵墓正因如此,《日本书纪》有关天智天皇的陵墓,才没有记载  日本書紀では、天智天皇は、病死したことになっているしかも、天武天皇が、次の天皇になることできるように、枕もとに呼んで、次の天皇になるようにと薦めているのである在《日本书纪》里,天智天皇是病死的而且,在病床上推荐天武天皇继位 日本書紀の墓のこと、三井寺の伝承のことを考えると、天智天皇が天武天皇に天皇位を譲ることを病床で言い出したと考えるよりは、誘拐、暗殺されたと考えた方が自然ではないだろうかなぜ、誘拐し、暗殺したかは、本編第1弾で述べたとおりである关于陵墓的问题,三井寺的传说,比起《日本书纪》里记载的天智天皇在病床上让位于天武天皇的记载,他被绑架,暗杀显得更为自然为什么这么说呢?本作第1弹,关于这点有论述「歴史書は、いつも勝者の作り話である」ということを考えると日本書紀もその例外ではないが、しかし、中国、朝鮮、日本に関する歴史書としては、やはり第1級の。

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