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8页ピアノ 芥川龍之介 ピアノ 或雨のふる秋の日、わたしは或人を訪ねる為に横浜の山手を歩いて 行つたこの辺の荒廃は震災当時と殆ど変つてゐなかつた若し少し でも変つてゐるとすれば、それは一面にスレヱトの屋根や煉瓦の壁の 落ち重なつた中に あかざ 藜 の伸びてゐるだけだつた現に或家の崩れた跡に は蓋をあけた弓なりのピアノさへ、半ば壁にひしがれたまゝ、つやや かに鍵盤を濡らしてゐたのみならず大小さまざまの譜本もかすかに 色づいた藜の中に桃色、水色、薄黄色などの横文字の表紙を濡らして ゐた わたしはわたしの訪ねた人と或こみ入つた用件を話した話は容易 に片づかなかつたわたしはとうとう夜に入つた後、やつとその人の 家を辞することにしたそれも近近にもう一度面談を約した上のこと だつた 雨は幸ひにも上つてゐたおまけに月も風立つた空に時々光を洩ら してゐたわたしは汽車に乗り遅れぬ為に(煙草の吸はれぬ省線電車 は勿論わたしには禁もつだつた出来るだけ足を早めて行つた ピアノ すると突然聞えたのは誰かのピアノを打つた音だつたいや、「打つ た」と言ふよりも寧ろ触つた音だつたわたしは思はず足をゆるめ、 荒涼としたあたりを眺めまはした。
ピアノは丁度月の光に細長い鍵盤 を仄めかせてゐた、あの藜の中にあるピアノは―――しかし人かげは どこにもなかつた それはたつた一 おん 音 だつたが、ピアノには違ひなかつたわたしは 多少無気味になり、もう一度足を早めようとしたその時わたしの後 ろにしたピアノは確かに又かすかに音を出したわたしは勿論振りか へらずにさつさと足を早めつゞけた、湿気を孕んだ一陣の風のわたし を送るのを感じながら…… わたしはこのピアノの音に超自然の解釈を加へるには余りにリアリ ストに違ひなかつた成程人かげは見えなかつたにしろ、あの崩れた 壁のあたりに猫でも潜んでゐたかも知れない若し猫ではなかつたと すれば、―――わたしはまだその外にも鼬だの蟇がへるだのを数へてゐ たけれども兎に角人手を借らずにピアノの鳴つたのは不思議だつた ピアノ 五日ばかりたつた後、わたしは同じ用件の為に同じ山手を通りかゝ つたピアノは不相変ひつそりと藜の中に蹲つてゐた桃色、水色、 薄黄色などの譜本の散乱してゐることもやはりこの前に変らなかつた 只けふはそれ等は勿論、崩れ落ちた煉瓦やスレヱトも秋晴れの日の光 にかがやいてゐた わたしは譜本を踏まぬやうにピアノの前へ歩み寄つた。
ピアノは今 目のあたりに見れば、鍵盤の象牙も光沢を失ひ、蓋の漆も剥落してゐ た殊に脚には海老かづらに似た一すぢの蔓草もからみついてゐた わたしはこのピアノを前に何か失望に近いものを感じた 「第一これでも鳴るのかしら」 わたしはかう独り語を言つたするとピアノはその拍子に忽ちかす かに音を発したそれは殆どわたしの疑惑を叱つたかと思ふ位だつた しかしわたしは驚かなかつたのみならず微笑の浮んだのを感じた ピアノは今も日の光に白じらと鍵盤をひろげてゐたが、そこにはい つの間にか落ち栗が一つ転がつてゐた ピアノ わたしは往来へ引き返した後、もう一度この廃墟をふり返つたや つと気のついた栗の木はスレヱトの屋根に押されたまま、斜めにピア ノを蔽つてゐたけれどもそれはどちらでも好かつたわたしは只藜 の中の弓なりのピアノに目を注いだあの去年の震災以来、誰も知ら ぬ音を保つてゐたピアノに ピアノ 底本: 「芥川龍之介全集 第十二巻」岩波書店 1996(平成8)年10月8日発行 入力:もりみつじゅんじ 校正:松永正敏 2002年5月17日作成 2004年3月9日修正 青空文庫作成ファイル: こ の フ ァ イ ル は 、イ ン タ ー ネ ッ ト の 図 書 館 、青 空 文 庫 (http://www.aozora.gr.jp/)で 作 ら れ ま し た 。
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