杜子春---芥川龙之介---日文原版.doc
15页杜子春芥川龍之介一或春の日暮ですらくやう唐の都 洛 陽 の西の門の下に、 ぼんやり空を仰いでゐる、 一人の若者がありましたとししゆん若者は名は 杜 子 春 といつて、元は金持の息子でしたが、 今は財産をつか費つくひ 尽 して、その日の暮しにも困る位、あはれ憐な身分になつてゐるのです何しろその頃洛陽といへば、 天下に並ぶもののない、 繁昌を極めた都ですかわうらいら、 往 来 にはまだしつきりなく、 人や車が通つてゐました 門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、 老人のかぶつたしや トルコ紗 の帽子や、 土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸のたづな ようす手 綱 が、絶えず流れて行く 容 子 は、まるで画のやうな美しさですもたしかし杜子春は相変らず、 門の壁に身を 凭 せて、ぼんやり空ばかり眺めてなびゐました空には、もう細い月が、うらうらと 靡 いた霞の中に、まるで爪のあと痕 かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです「日は暮れるし、 腹は減るし、 その上もうどこへ行つても、 泊めてくれる所はなささうだし ―― こんな思ひをして生きてゐる位なら、 一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。
」杜子春はひとりさつきから、 こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのですすがめするとどこからやつて来たか、 突然彼の前へ足を止めた、 片目 眇 の老人があります それが夕日の光を浴びて、 大きな影を門へ落すと、 ぢつと杜子春の顔を見ながら、わうへい「お前は何を考へてゐるのだ」と、 横 柄 に言葉をかけました「私ですか私は今夜寝る所もないので、 どうしたものかと考へてゐるのです 」老人の尋ね方が急でしたから、 杜子春はさすがに眼を伏せて、 思はず正直な答をしました「さうかそれは可哀さうだな」しばら老人は 暫 く何事か考へてゐるやうでしたが、 やがて、往来にさしてゐる夕日の光を指さしながら、「ではおれが好いことを一つ教へてやらう 今この夕日の中に立つて、 お前の影が地に映つたら、 その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから」「ほんたうですか」杜子春は驚いて、伏せてゐた眼を挙げました所が更に不思議なことには、あの老人はどこへ行つたか、 もうあたりにはそれらしい、 影も形も見当りませなほんその代り空の月の色は前よりも 猶 白くなつて、休みない往来の人通りのかうもり上には、もう気の早い 蝙 蝠 が二三匹ひらひら舞つてゐました。
二とししゆん杜 子 春 は一日の内に、洛陽の都でも唯一人といふ大金持になりましたあの老人の言葉通り、 夕日に影を映して見て、 その頭に当る所を、 夜中にそつと掘つて見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのですげんそう大金持になつた杜子春は、 すぐに立派な家を買つて、 玄 宗 皇帝にも負けぜいたくない位、 贅 沢 な暮しをし始めましたらんりよう蘭 陵 の酒を買はせるやら、 桂りゆうがんにく ぼたん州の 竜 眼 肉 をとりよせるやら、日に四度色の変る 牡 丹 を庭に植ゑさしろくじやくせるやら、 白 孔 雀 を何羽も放し飼ひにするやら、 玉を集めるやら、 錦を縫はせるやら、かうぼく香 木 の車を造らせるやら、象牙の椅子をあつら誂へるやら、その贅沢を一々書いてゐては、 いつになつてもこの話がおしまひにならない位ですうはさするとかういふ 噂 を聞いて、今までは路で行き合つても、 挨拶さへしなかつた友だちなどが、朝夕遊びにやつて来ました それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、 洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、 杜子春の家へ来ないものは、 一人もない位になつてしまつたのです。
杜子春はこの御客たちを相手に、 毎日酒盛りを開きました その酒盛りの又盛なことは、 中ごく々口には尽されません 極 かいつまんだだけをお話しても、 杜子春が金の杯てんぢくに西洋から来た葡萄酒を汲んで、 天 竺 生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸ひすゐに見とれてゐると、 そのまはりには二十人の女たちが、 十人は 翡 翠 の蓮の花めなうを、十人は 瑪 瑙 の牡丹の花を、 いづれも髪に飾りながら、 笛や琴を節面白く奏してゐるといふ景色なのですしかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがにぜいたくや贅 沢 家 の杜子春も、一年二年と経つ内には、 だんだん貧乏になり出しましたさうすると人間は薄情なもので、 昨日までは毎日来た友だちも、 今日は門の前を通つてさへ、 挨拶一つして行きません ましてとうとう三年目の春、 又杜子春が以前の通り、 一文無しになつて見ると、 広い洛陽の都の中にも、 彼に宿を貸さうといふ家は、 一軒もなくなつてしまひました いや、宿を貸す所か、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのですそこで彼は或日の夕方、 もう一度あの洛陽の西の門の下へ行つて、 ぼんやり空を眺めながら、 途方に暮れて立つてゐました。
するとやはり昔のやうに、 片すがめ目 眇 の老人が、どこからか姿を現して、「お前は何を考へてゐるのだ」と、声をかけるではありませんかまま しばら杜子春は老人の顔を見ると、 恥しさうに下を向いた 儘 、 暫 くは返事もしませんでしたが、老人はその日も親切さうに、 同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じやうに、「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです」と、恐る恐る返事をしました「さうかそれは可哀さうだな、 ではおれが好いことを一つ教へてやらう 今この夕日の中へ立つて、 お前の影が地に映つたら、 その胸に当る所を、 夜中に掘つて見るが好いきつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから」また老人はかう言つたと思ふと、 今度も 亦 人ごみの中へ、 掻き消すやうに隠れてしまひましたたちま杜子春はその翌日から、 忽 ち天下第一の大金持に返りました と同時にしはうだい相変らず、 仕 放 題 な贅沢をし始めました 庭に咲いてゐる牡丹の花、 その中に眠つてゐる白孔雀、 それから刀を呑んで見せる、 天竺から来た魔法使 ―― すべてが昔の通りなのですおびただですから車に一ぱいあつた、 あの 夥たしい黄金も、又三年ばかり 経つ内には、すつかりなくなつてしまひました。
三「お前は何を考へてゐるのだ」片目眇の老人は、 三度杜子春の前へ来て、 同じことを問ひかけました 勿論彼はその時も、 洛陽の西の門の下に、 ほそぼそと霞を破つてゐる三日月の光をたたず眺めながら、ぼんやり 佇 んでゐたのです「私ですか私は今夜寝る所もないので、 どうしようかと思つてゐるのです 」「さうかそれは可哀さうだな ではおれが好いことを教へてやらう 今この夕日の中へ立つて、 お前の影が地に映つたら、 その腹に当る所を、 夜中に掘つて見るが好いきつと車に一ぱいの ―― 」さへぎ老人がここまで言ひかけると、 杜子春は急に手を挙げて、 その言葉を 遮りました「いや、お金はもう入らないのです」「金はもう入らない ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつたと見えるな」いぶか老人は 審 しさうな眼つきをしながら、 ぢつと杜子春の顔を見つめました「何、贅沢に飽きたのぢやありません 人間といふものに愛想がつきたのです 」つつけんどん杜子春は不平さうな顔をしながら、 突 慳 貪 にかう言ひました「それは面白いなどうして又人間に愛想が尽きたのだ」つゐしよう「人間は皆薄情です 私が大金持になつた時には、 世辞も 追 従 もしますやさけれど、一旦貧乏になつて御覧なさい。
柔 しい顔さへもして見せはしませんそんなことを考へると、 たとひもう一度大金持になつた所が、 何にもならないやうな気がするのです」老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑ひ出しました「さうかいや、お前は若い者に似合はず、感心に物のわかる男だではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」杜子春はちよいとためらひました が、すぐに思ひ切つた眼を挙げると、 訴へるやうに老人の顔を見ながら、「それも今の私には出来ません ですから私はあなたの弟子になつて、 仙術の修業をしたいと思ふのです いいえ、隠してはいけません あなたは道徳の高い仙人でせう 仙人でなければ、 一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈ですどうか私の先生になつて、 不思議な仙術を教へて下さい 」老人は眉をひそめた儘、 暫くは黙つて、 何事か考へてゐるやうでしたが、 やがて又につこり笑ひながら、がびさん す てつくわんし「いかにもおれは 峨 眉 山 に棲んでゐる、 鉄 冠 子 といふ仙人だ 始めお前の顔を見た時、 どこか物わかりが好ささうだつたから、 二度まで大金持にしてやつたのだが、それ程仙人になりたければ、 おれの弟子にとり立ててやらう。
」いと、快く願を 容れてくれました杜子春は喜んだの、 喜ばないのではありません 老人の言葉がまだ終らないおじぎ内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に 御時宜をしました「いや、さう御礼などは言つて貰ふまい いくらおれの弟子にした所で、 立派な仙人になれるかなれないかは、 お前次第できまることだからな ―― が、兎さいはひも角もまづおれと一しよに、峨眉山の奥へ来て見るが好いおお、 幸 、ここに竹杖が一本落ちてゐる では早速これへ乗つて、 一飛びに空を渡るとしよう」じゆもん鉄冠子はそこにあつた青竹を一本拾ひ上げると、 口の中に 呪 文 を唱。





