
源氏物语日文版.doc
13页源 氏 物 語 桐壺(きりつぼ) (中译) 與謝野晶子訳 紫のかゞやく花と日の光思ひあはざることわりもなし 晶子 どの天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深いご寵愛(ちょうあい)を得ている人があった最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力にたのむところがあって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれたその人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬(しっと)の炎を燃やさないわけもなかった夜の御殿(おとど)の宿直所(とのいどころ)からさがる朝、つづいてその人ばかりが召される夜、目に見、耳に聞いてくやしがらせた恨みのせいもあったか、からだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へさがっていがちということになると、いよいよ帝(みかど)はこの人にばかり心をおひかれになるというごようすで、人がなんと批評しようとも、それにご遠慮などというものがおできにならない。
ご聖徳を伝える歴史の上にも暗い影のひとところ残るようなことにもなりかねない状態になった高官たちも殿上(てんじょう)役人たちも困って、ご覚醒(かくせい)になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどのご寵愛ぶりであった唐(とう)の国でもこの種類の寵姫(ちょうき)、楊家(ようか)の女の出現によって乱が醸(かも)されたなどと陰(かげ)ではいわれる今や、この女性が一天下のわざわいだとされるにいたった馬嵬(ばかい)の駅がいつ再現されるかもしれぬその人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気(ふんいき)の中でも、ただ深いご愛情だけをたよりにして暮していた父の大納言(だいなごん)はもう故人であった母の未亡人が生れのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢力のある派手(はで)な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえたそれでも大官の後援者をもたぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった 前生(ぜんしょう)の縁が深かったか、またもないような美しい皇子(おうじ)までがこの人からお生れになった寵姫を母とした御子(みこ)を早くごらんになりたい思召(おぼしめ)しから、正規の日数がたつとすぐに更衣母子(おやこ)を宮中へお招きになった。
小皇子は、いかなる美なるものよりも美しい顔をしておいでになった帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生れになって、重い外戚(がいせき)が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌(びぼう)にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子としてだいじにあそばされ、これはご自身の愛子として、ひじょうにだいじがっておいでになった更衣ははじめから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった、ただ、お愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女といってよいほどのりっぱな女ではあったが、しじゅうおそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催(もよお)し事をあそばすさいには、だれよりもまず先にこの人を常の御殿(おとど)へお呼びになり、またある時はお引きとめになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができず、そのまま昼も侍(じ)しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生れになって以後、目に立って重々しくお扱いになったから、東宮(とうぐう)にも、どうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子のご生母の女御は疑いをもっていた。
この人は帝のもっともお若い時に入内(じゅだい)した最初の女御であったこの女御がする非難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかったこの女御へすまないという気もじゅうぶんにもっておいでになった帝の深い愛を信じながらも、悪くいう者と、何かの欠点を探し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無力な家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった 住んでいる御殿は御所の中の東北のすみのような桐壺(きりつぼ)であったいくつかの女御や更衣たちの御殿の廊(ろう)を通(かよ)い路(みち)にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直(とのい)をする更衣があがりさがりして行く桐壺であったから、しじゅうながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量(かさ)んでいくのも道理といわねばならない召されることがあまりつづくころは、打橋(うちはし)とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪いしかけがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾(すそ)が一度で痛んでしまうようなことがあったりするまたあるときは、どうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠(じょう)がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしがいい合せて、桐壺の更衣の通り路をなくして辱(はずか)しめるようなことなどもしばしばあった。
数えきれぬほどの苦しみを受けて、更衣が心を滅入(めい)らせているのをごらんになると、帝はいっそう憐(あわ)れを多くお加(くわ)えになって、清涼殿(せいりょうでん)につづいた後涼殿(こうりょうでん)に住んでいた更衣を外へお移しになって、桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった移された人の恨みはどの後宮(こうきゅう)よりもまた深くなった 第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着(はかまぎ)の式がおこなわれた前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手(はで)な準備の費用が宮廷から支出されたそれにつけても世間はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聰明(そうめい)さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生れてくるものかとみな驚いていたその年の夏のことである御息所(みやすどころ)(皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである)はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが、帝はおゆるしにならなかったどこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」といっておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五六日のうちに病は重体になった。
母の未亡人は泣く泣くお暇(ひま)を願って帰宅させることにしたこんな場合にはまたどんな呪詛(じゅそ)がおこなわれるかもしれない、皇子にまでわざわいをおよぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目立たぬように御息所だけが退出するのであったこのうえとどめることは不可能であると帝は思召(おぼしめ)して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬご尊貴の御身(おんみ)のものたりなさを堪えがたく悲しんでおいでになった はなやかな顔だちの美人がひじょうに痩(や)せてしまって、心の中には帝とお別れしていく無限の悲しみがあったが、口へは何も出していうことのできないのがこの人の性質であるあるかないかに弱っているのをごらんになると、帝は過去も未来もまっ暗になった気があそばすのであった泣く泣くいろいろなたのもしい将来の約束をあそばされても、更衣はお返辞もできないのである目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心(おおみこころ)を襲うた更衣が宮中から輦車(てぐるま)で出てよいご許可の宜旨(せんじ)を役人へお下(くだ)しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると、今行くということをおゆるしにならない。
「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」と、帝がおいいになると、そのお心もちのよくわかる女も、ひじょうに悲しそうにお顔を見て、「限りとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり 死がそれほど私に迫ってきておりませんのでしたら」 これだけのことを息も絶え絶えにいって、なお帝においいしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷(きとう)も高僧たちがうけたまわっていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申しあげて方々から更衣の退出をうながすので、別れがたく思召しながらお帰しになった 帝は、お胸が悲しみでいっぱいになって、お眠りになることが困難であった帰った更衣の家へお出しになる尋(たず)ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ちどおしいであろうと仰(おお)せられた帝であるのに、お使いは、「夜半過ぎにお卒去(かくれ)になりました」といって、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると、力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。
更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引籠(こも)っておいでになったその中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服(きふく)中の皇子が、けがれのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけをふしぎにお思いになるふうであった父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心もちほどお気の毒なものはなかった どんなに惜しい人でも、遺骸(いがい)は遺骸として扱われねばならぬ葬儀がおこなわれることになって、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣き焦(こ)がれていたそして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕(おたぎ)の野にいかめしく設けられた式場へついた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷(まよ)いをさますために行く必要があります」と賢そうにいっていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。
宮中からお使いが葬場へ来た更衣に三位(み)を贈(おく)られたのである勅使がその宣命(せんみょう)を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった三位は女御に相当する位階である生きていた日に女御ともいわせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位をたまわったのであるこんなことででも後宮のある人々は反感をもった同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壺の更衣の真価を思い出していたあまりにひどいご殊寵(しゅちょう)ぶりであったから、その当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていたやさしい同情深い女性であったのを、帝つきの女官たちはみな恋しがっていた「なくてぞ人は恋しかりける」とは、こうした場合のことであろうと見えた時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて、七日七日の仏事がつぎつぎにおこなわれる、そのたびに帝からはお弔(とむら)いの品々が下された 愛人の死んだのちの。












