大雁塔日语导游词.doc
2页皆様、今日見学のは大雁塔です玄奘三蔵法師が天竺から持ち帰った経典を納めた大雁塔は西安のシンボルで、西安の南にある大慈恩寺の中にあって、西安で最もよく保存されている唐代の建物です大慈恩寺は西暦 648 年に建てられ、唐の第三代皇帝高宗李治が自分の太子の時になくなった母親の霊を慰め(なぐさめ) 、母親の慈恩を報いるために建てたものですだから大慈恩寺と名付けました当時慈恩寺は僧坊(そうぼう)1897 室、僧侶(そうりょ)300 人が集まっていたが、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎません則天武后の長安年間(701~704)に大改造(だいかいぞう)を行って十層になったが、その後の戦乱などで七層から上が崩壊(ほうかい)してしまっいました現在の塔は煉瓦造りの七層で、高さ 64m、中に螺旋階段があり、最上階まで登るこのができますまた、各層には東西南北の四方に窓が開いています唐代の名僧、玄奘三蔵法師も大慈恩寺の住職(じゅしょく)になったこともあります彼は唐太宗の時、インドへ渡り、仏法(ぶっぽう)を 17 年も勉強しましたそして、多くの仏典を持ち帰りました寺内には仏典を翻訳する部屋もあります。
玄奘三蔵法師はここで 12 年間に渡り、おびただしい量の仏典を翻訳しました唐代は仏教のとても盛んな時代ですから、仏教に力を尽くした玄奘三蔵法師も非常に人望がありました彼の業績に対し、唐の太宗と高宗はそれぞれ絶賛と感謝の意を込めた文章を残していますこれはには唐第二代皇帝太宗李世民の「大唐三蔵聖教序」の石碑で、これは唐第三代皇帝高宗李治の「大唐三蔵聖教序記」の石碑です碑文の内容は玄奘法師の苦労を称えたものです書道家褚遂良()によって、石碑に刻まれ、今も大雁塔に保存されていますところで、これらの仏典を保存するために塔を建ててくださいませんかと玄奘法師は唐の高宗に申し込みましたそれで西暦 652 年に塔が建てたのですこの「大雁塔」という名前については二つの伝説がありますそのうちの一つは、ある菩薩が雁に変身して、死んだ後この塔に葬られたので、雁塔と名付けたと言うことですもう一つの伝説は仏教には大乗と小乗があり、大乗は肉を食べることを許しません小乗は肉を食べてもいいことになっていますその頃のインドで、ある日、小乗の僧侶達が肉のないことに困っていましたその時、誰かが今日はお釈迦様が苦しい人に施しをする日だと思い出しました。
そこで、みんなで「お釈迦様、お助けください」と唱えたのですそのとたんに一羽の雁が彼らの前に落ちましたこれを見て、僧侶達は彼らのためにお釈迦様が雁の姿を借り、身を捨てたのだと悟りましたそしてその雁の落ちたところに「雁塔」を建て、慈悲の心を後代に伝えると言うことです唐の大雁塔は玄奘法師がインドの雁塔に基づいて設計(せっけい)したので、 「雁塔」という名前をつけたそうですその後、薦福寺にも「雁塔」が建てられましたが、それは小さいので「小雁塔」と呼ばれ、大慈恩寺にある塔は「大雁塔」と呼ばれるようになったのですまた、大雁塔は大慈恩寺にあるので、慈恩寺とも言われています現存する大雁塔の中の建物は大雁塔を除いて、大体明の時代のものです例えば、大慈恩寺に入ったところに、見える二つの小さいな建物はいずれも明のものですそれは鐘楼と鼓楼で、その中にそれぞれ大きな鐘と太鼓がありますそれはお寺に住んでいた僧侶に時間を知らせるために建てられたものですお寺に二つの殿堂があります手前にあるのは「大雄宝殿」と言われ、お釈迦様の像が祭られていますお釈迦様の像の両側に 18 の羅漢像があります18 羅漢は皆お釈迦様の弟子です。
後の殿堂は「法堂」 (はっとう)と言い、阿弥陀仏の像が祭られています仏教の教えによると、真心(まごころ)で「阿弥陀仏」の名を唱えれば、死後、西方の極楽(ごくらく)世界に行けるという事です法堂の東側の壁には玄奘法師の像の拓本がかけてありますこの拓本を見ると、玄奘法師が昼も夜も休まずに歩いて帰国し、一生懸命に仏教に献身したありさまを想像することができます今、大雁塔はさまざまな原因で、少し傾いています千年余りも立ち続けてきた大雁塔、その素晴らしい姿が西安の空にいつもでも聳えているよう願っております 。





